令和5年4月21日 午前の部


富田林ええとこ、新発見・再発見 「富田林の街道と道標」

富田林市文化財保護審議会委員       林 保夫講師


           林先生の三様(講義、オカリナ演奏、歌唱)
           林先生の三様(講義、オカリナ演奏、歌唱)

 林先生は、富田林市内の街道と道標を、自らの研究成果を踏まえてご講義くださった。その中で道標をビデオで流しながら、ご自身の作曲で「彼方伝説」と言う曲を、オカリナ演奏・歌唱された。ビデオのBGMとして素晴らしかった。

 富田林を愛する情熱を、ご講義から感じられた。

 普段そこにあることも知らず、ついつい見過ごしてしまう道標  車の通らない、あるいは1.5車線くらいの何気ない道、これらの一つ一つに歴史があることを知り、自分は何を見聴きして毎日過ごしてきたのだろうかと思う。これから身の回りのものをじっくり見てみようと思った。


富田林の道・街道

出典;WEB れきし街道歩き旅
出典;WEB れきし街道歩き旅

 古くから交通の要所であった旧寺内町の周辺では、北部から入ってくる「東高野街道」や「巡礼街道」「富田林街道」、東に出て石川をわたり南大伴を通って千早赤阪村につながる「千早街道」、板持に入って村中を縦断し甘南備から観心寺を経て吉野方面に向かう「観心寺道」などがあります。また、喜志駅近くには「喜志街道(大和伊勢道)」と呼ばれたものもあります。

  京都から洞が峠(枚方市)を越えて生駒山西麓を南下し、八尾から古市をへて富田林へ入る東高野街道は、古くから官道として利用されたところで、高野山への参詣の道として発達してきました。
 室町時代ごろから庶民の西国三十三所霊場巡礼が盛んになると、東高野街道のバイパスにあたる道筋が巡礼道として人々に利用されるようになりました。大阪府内にある4か所の番所のうち、5番の葛井寺(ふじいでら)から4番の和泉の施福寺(槙尾寺)までの道筋が巡礼街道として残っていま
す。富田林を通る巡礼街道は、羽曳野市に隣接する平野から美具久留御魂神社のある宮町をぬけ、たんぼ道のなかをくねりながら寺内町へとつながっています。寺内町の入口には、小さな道標と地蔵尊がまつられており、庶民の道としての名残を知ることができます。

 幹線道路からはずれ、生活道路となった沿道には、スニーカーに地図を持った夫婦連れや笠をかぶった巡礼者の姿も見受けられ、あたりには今でも古道のたたずまいを伝える風景が数多く残されています。
この巡礼街道は、南河内の10市町村が広域の事業で整備した「河内ふるさとのみち」にあたり、散策ルートとして利用できるよう案内板や道標を設置しています。 出典;富田林市文化財課 古道と道しるべ


富田林の道標

            くわえきせる道標
            くわえきせる道標

 富田林市には、現在33個の道標があります。そしてその設置費用は、公のところから出たのでなく、民間が自主的に私財を投下したことに特徴があります。江戸時代中期・後期に設置され、自分たちのためでなく、見ず知らずの旅人が道に困らぬように、いわば「見知らぬ人への思いやり」が目的でした。この考えの背景には仏教の教えがあると考えられます。

 富田林寺内町の南端にある道標はちょっと変わっています。場所や方角のほかに寺内町の中での「くわえせる」「ひなわ火」を禁止する文言が刻まれているのです。
この道標が建てられたのは宝暦元年(1751)。そのおよそ20年前の享保15年(1730)11月、寺内町は一里山町・富山町の全域と北会所町の西方が全焼する大火に見舞われています。おそらく、火事の恐ろしさを思い知らされた人びとが町を火事から守りたいという思いをこめて、寺内町を通る人びとに火の用心を呼びかける道標を建てたものでしょう。

出典;WEB 富田林きらめきミュージアム

午後の部 クラスカフェ


緊張感ある中、各班の役割を決める。


                          緊張感の中、熱心に話し合う各班の人たち
                          緊張感の中、熱心に話し合う各班の人たち

 はじめての富田林カレッジ入学者が約55%の方が、緊張感をもって、リピーターのアドバイスで、クラスカフェで今年度の役割を決めた。

 そして、各班で、班長、副班長、会計、一口レポート係、ホームページ係、遠足係、懇親会係、修了旅行係、世代間交流係、ふれあい祭りバザー係、ふれあい祭り演芸係、ふれあい祭り展示係を選出し、各役割ごとに各班から集まり、それぞれのリーダー、副リーダーを互選で選出した。

 その結果、クラス委員長、クラス副委員長、クラス会計が決定した。皆様1年間それぞれの役割頑張りましょう。